最近買ったもの 2020年7月

ワラビー ゴアテックス

・仕事でも使える

・雨でも履ける

ゴアテックスを使った靴が欲しかったのもある。

・履き心地が良い(ワラビー はもう一足モンクベルトタイプを持っているから、足の形が合う事は確認済み)

・もう一足のワラビーのソールが溶けるのが心配だった

 

Apple Watch Series 3

・ずっと気になってた

・メリットは使わないと分からないと思った(照沼さんのブログの影響)

・値段も安い(使わなくなっても後悔しないギリギリの値段)

・コロナ禍で体温を継続して図る事で体のログをとる楽しみを覚えた

・新しいものに触れておかないと歳を取りそうだと思った(価値観の更新をしたかった)

 

mujilabo シャツジャケット

UNIQLO Uのシャツジャケットに代わるものが欲しかった

・セールで値段が安かった

・そもそもmujilaboの服を着てみたかった

・収納能力があって簡単に羽織れるシンプルな服が欲しかった。

・YAECAのコンフォートシャツに似ていた。

 

 

自分のモノ選びの備忘録として。

松之丞改メ神田伯山真打昇進披露興行 絵を描く

講談は高校生の時に課外授業で聴いて以来

観に行った事はなかったと思う。

 

神田伯山を魅力的に感じるのは何故だろう。

 

浅草演芸ホールで観た襲名披露興行での一席に感じたことを書き留めておこうと思う。

 

客との距離感は寄せに行くより引きつけるイメージ

当然自分のために来ている客が9割

感覚的にはラジオドラマ

SE的な効果音は不要

初心者でも楽しめる様な派手なシーンを含むネタを選ぶ

集中力の持続時間の把握能力が高い

話の中と外へ出入りのタイミングが巧妙で、自分の感覚が掴まれている事を自覚できる

身を委ねても安心感がある。

 

台詞回しの速度はこちらが耳を傾けたい内容と気づきのリズムのシンクロしている。

存在しないBGMのグルーヴを感じる

釈台を叩く一瞬前、想像力を引き寄せる糸を切り、叩いた音は立ち止まる自意識の足音のよう。

 

講談は凧揚げのよう。

付かず離れず、互いに引き合う糸の張り、台本は風

 

 

レトロとか

レトロフューチャーなんて、来なかったのかも知れない。

 

多分想像した未来は2000年、気づけばそこから20年。生まれた子供も大人になる。

未来らしい未来はここには無くて、地続きの日常、悲しいほどの今。

未来を感じる生活は馴染む。未来を描くにはもう未来すぎて。

あの頃は、なんて言うくらいには未来。

 

ただ、少し前に描いた未来のスタイリングは古くて驚く。まるで、夢のように。

もう来ない、記号になれなかった記号。

ほとんど全てがレトロ。

 

今描ける未来も、到達しないパラレルワールド

止めるな このままじゃ誰かに止められてしまうから

映画館に足しげく通うほど映画が好き、と言うわけではないけれど映画の事は割と好きだ。恐らく自分の中の感覚として、絵が好きだ とか 音楽が好きだ と同じような距離感で(美術館に通うでもないし、ライブにしょっちゅう行くわけではない)。

夏休みが終わってしまう前に、カメラを止めるな!を観てきた。ネタバレは絶対にダメだと聞いていたから、事前情報は極力入れずに臨んだのだけど、まあ皆の忠告はその通りで、内容をほぼ知らずに観て良かったと心から思った。

なんというか、もう、愛だなと。作品がどれほど素晴らしかったとか、そんな話は正直どうでも良くて。1つの方向を真っ直ぐに見て突き進む事がどんなに美しいかを思い知らされたというか。小手先とか芸術性とかそんな自分をひけらかすような事はせず、只々愛の確認が続く。こちらに背中を向けたまま突っ走ってるのに、信じて進んでいるから人の声なんて聞く気なんて無いのに、時々こちらを振り返って進む方向を確認して来るような。

仔犬みたいな、辿々しくエネルギーに満ち溢れた走り方をする。

こちらももちろん出来上がった作品を変えることなんて不可能な訳なんだけど、気持ちとしては、いいよいいよ、行け行け、そのまま、つんのめってても迎えに行かないし、でも、どこも行かないからそのまま走りな、見てるし、応援するよ!みたいな。作品と観客の信頼関係を信じてる、すごく純粋な愛に溢れた映画だった。映画ってこんなに楽しかったんだ、現場もきっと楽しんでたんだ、映画が好きで好きでたまらないんだ、全てがこうだったらいいのに、人が作るものが全てこんな環境にあったら良いのに、と 思わせてくれる、すごく幸せな作品だった。

もちろん、商業ベースではこんな事、奇跡でしかない。そんな部分も理解出来ているつもりになるくらいにはスレてしまっているのだけれど。

有意義

"他のものと比べて重要である事"が意義であるから比べる対象が存在している。何かをする事が有意義であるとすると、比較対象は何もしないことか?何もしない が無いとしたら取り立てて特別な事をしない日常を否定することに?否定していないのだとしたら小休止が必要という事で、小休止は非日常だったり、立ち止まって振り返るそのことと捉えよう。日常は続くから日常だけれど、いくら素敵な日常でも続ける事は大変に体力がいるのです。有意義な過ごし方 は単調な日常へ変化を加えられるような過ごし方?刺激はパチンと弾くようなものなのか 意図的な沈黙なのか?有意義 は 充実した に置き換えられるのかしら?充実している けど 有意義 では無い過ごし方はどんな過ごし方だろうか 充実 は何かに追われていても感じるかも知れないね。有意義 は追われることを否定しますか?比較する前提があるから、追われる事を知覚して他の選択肢を用意出来ていなければ 有意義 を選択する事も出来ないのかも知れないね。必死になればなるほど 充実 こそすれ 有意義 を手に入れるには意図的な休止を挟むしか選択肢を産む方法がなくなるのかもね。

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PLMS考

音楽的な事ではなく、覚悟としての音楽のあり方や個人的に感じる仕事を選ぶ事。他人の人生としてのceroに望むことは営みの側の音であり、内省的な思考と活動と思う。それはとても個人的なエゴに基づいた希望であり欲求でもある。人の体が動く音としてのダンスは頭から発せられる物よりも裏側、もしくは内側にあるもので、ひねり出すよりもそこに発現してしまった、あたかも偶然のような状態が好ましくて、それは洗練されてはならないし、熟れることは以ての外。観察し、見えてしまったものは事実として既にそこにあったものでありそれが何かもわからずに飲み込んだ状態こそが芯に響く表現で、例えそれがフェイクであっても一時の気の迷いを起こさせたのであればその時点で表現としての成功なんじゃないだろうか。そこに民藝の美しさもあるし、匿名性すら発生するんだと感じられる。動物としての身体性は自発であって自発でない、カテゴライズを許さない表現を授ける、ただの運動の軌跡がそこにあるのみ。作家性と言う名の手癖はただの手癖であり、無意識を意識した結果なんじゃないか。そこには無意識を意識した意志が残ってしまう。それは温もりや親しみと呼ぶこともできるけど、個を遺してしまう。体が揺れることをダンス、舞踏と捉えた時点で必要以上の成熟を呼び込み、それは枠組みを自らにはめ込んでしまう。後から論じることはタイミングなど問わず、いつでも出来る事なのに、早急に回答を求めてしまう現代の悲しみで、名を広め、実を薄めざるを得ない市場を向かなければいけない立場の宿命でもある。勿論、その悲しみや、他人の宿命はは自分が感じたままを簡単には受け入れない私と言う主体があってこそ成り立つ梯子の様なものなのだけれど。杭を打つとすると、これはレビューや感想ではなく、こうでありたいと思う自分への戒めとしてのメモ。

 

 

POLY LIFE MULTI SOUL (初回盤A)

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POLY LIFE MULTI SOUL (初回盤B)

POLY LIFE MULTI SOUL (初回盤B)

 
POLY LIFE MULTI SOUL (通常盤)

POLY LIFE MULTI SOUL (通常盤)

 

 

 

どどど

ドラえもん

ドラえもん

脳内リピートが止まらないから久しぶりにiTunesで一曲購入してしまった。

 

星野源無双感が凄いんだけど、それにしても圧が強すぎて頭が混乱してくる。

 

夏休み前の、吸い込まれるような永遠を感じさせる放課後夕暮れにはまだ早い1日の青空の終わり

入道雲と裏山、広くて想像が及ばない世界の中にある つまらなく、全てが想像できてしまう日常。内と外がハッキリしているイマとココ。

似たような環境が地続きでこの世界には無数にあることなんて分かってるし、実際に足を踏み入れて確認する必要なんてない様に思ってる。

だって世界は自分がいるこの場所だけだから。

それでも、気がつけないような小さなキッカケに自分が知っている内側より深く内に、想像していた外側を楽に超えてしまうようなもっと広大な外に放り出されてしまう。

さっきまでの日常とは切り離されてしまっても、未来から現在にこぼれ落ちてしまったこの先に起こりうるはずの事実を信じていられれば、それだけ強く正直でいられれば放り出されたと思った想像の及ばなかったその場所も必ず現実のイマに繋がっているはずだし、未来の足跡だって現実のものに出来るんだ。