QUIERO V.I.P

あぁ、学生の時なら聴いてるかもね。

母親に好きなバンドの曲を鼻息荒くして聴かせた後の感想だった。今はもう、それが誰の何ていう曲か忘れてしまったけど、そんな風に言われても仕方がないなと思う曲はいくらでもある。生意気にも若者の間で流行りのバンドの曲に似たような感想を抱くことは少なくない。

どこのレーベルの誰がアツいとか、これを聴いてなきゃ人生損してるとか、これは自分の事を歌った曲だとか、そんなの、何周したかわからない。それでも、自分の中に残る音や歌詞はあるし、そんな感想は僕だって沢山吐いてきた。だって今しか今は無いから。

みんながそれぞれの時代でそれぞれに似たような感想を持つべきだし、大事にしたい自分だけの音楽は必ず人生を豊かにするし、マイルストーンとして、タイムマシンとしてそんな人生変えちゃうくらいに思えるものなんて出逢おうとして出逢えるものじゃ無いから。

 

だけど、QUIERO V.I.Pはずるいと思う。

どんなに斜に構えていても、生意気で幸せだもの。憧れる無頼や甘い幸せを、確かな幻想を、非現実を叩き込んでくる。今だけかも知れない、今だけかも知れないけど、今は最高のポップを与えてくれる。

 

澄み切った空気の中で天真爛漫を。

 

 

 

QUIERO V.I.P.

QUIERO V.I.P.

 

 

 

交信

時間を超えて、音楽の話を父とする

thundercat

何を聴いて育てばこんな音楽を愛せるのか。

 

いまの時代の雰囲気を表すのがthundercatだとしたら、余りにも洗練されていて、かつ、30代に足を踏み入れた自分にとっては記憶のはじめの方の音楽に近い。

 

ジャケットを見た限りでは父の聴いていたマイルスを。音を聴いてはまだ知らない父の青年期を。

 

知らない私のノスタルジーを刺激する、確かに身体が揺れる音楽は誰のものなのか。人が作って人が聴く、何を模す事もない、自然と呼ぶ環境の中に身を置いた、自身の作り上げたどこからも自動的には辿り着けない理想の原型を受け入れる人の為の音楽なのかも知れない。

 

 

Drunk [帯解説・ボーナストラック1曲収録 / 国内盤]  (BRC542)

Drunk [帯解説・ボーナストラック1曲収録 / 国内盤] (BRC542)

 

 




シティ ポップ

言葉の定義はゆらぐものだと思っている。意味が深くなる事も分散する事ももちろん起こる。
シティポップは推測するに、レコード会社や音楽誌が作った言葉なんだろう。それまでの邦楽の潮流に無かった都会的な音楽を指して一つのジャンルを新しく設定しただけなんだと思う。それが80年代。
2000年代後半になり、東京インディーズと呼ばれたバンド、ミュージシャンがシティポップの次代の旗手として取り上げられる。その界隈のバンドを好む私はシティポップブランドが多少一般的になるに従って思ったのだ、シティポップって一体なんだ?と。
様々なシティポップ像があるようで、私は 森は生きている をシティポップとして聴けないのだけれど、彼らもそこに位置するらしい記事をどこかで読んだ。
都市をシニカルに捉えた音楽がシティポップなら、ナンバーガールだってシティポップになってしまう。別に問題はないけど。

思うに、シティポップはシティのポップスであり、シティを歌ったポップスであれば誰が分類されても良いのだ。もう、ラブソングと同じ位にシティポップで良いはずなんだ。

私が音楽を聴くのは、自分のものにできる音楽を見つけるためだから、プレイヤーがジャンルの分け方についてどうこう言うのはどうでもいい事なんだ。

内にこもる

アンティーク調の小物を求めてみたり、田舎暮らしに憧れてみたり、和菓子を欲しがってみたり。
若い人、20代がそんな感じの趣向を持つような話を読んだり聞いたり実感したりするのだけど、発端は何処にあるのかな。
今現在60歳前後の人達が目立つ場所で現役でいる事で若い頃の話をする。そんな風に成りたい、年を取りたいと思う。
自分に足りないものを吸い上げる。
記憶の中の要素を思い浮かべる。小さい頃の記憶、安心できた場所、原点のようなもの。祖父母の家、非現実、許容してくれる場所、遊び、おやつ。
今の生活、現実。甘える場所、人。
選びたい。選ばれる準備をする土地、人。シーン。見栄え。見栄。
内側を覗けば、止まった時間のある一点。自分の事は自分が一番よく知っていて、誰も理解出来ないと思い込む事。幸せの絵を描けば、これまでの経験だけが頼りで、これからの想像に目が向かない。いい事ばかりを拾い集めてしまう。
自分だけと思う人の画一とブームにしかならない動き。生活のコスプレ、上塗りの生活。可能性を見上げて作るべきこれから。
寂しいのかなみんな。内側を覗きすぎた結果の懐古じゃ無かろうか。

思った事

大学の時の同級生が死んだ。
特別親しかった訳では無いけど、親しくなかった訳でもなかった。
旅行も何度か行った。多分2回くらい。
スキーと富士登山
家に泊まったのは結構多い方だと思う。
数えられない。高円寺だった。近所の酒屋でアサヒビールの1リットル缶を買って飲んだ事とかある。夜中のコンビニでDVD付きのエロ本買ったりしたし。100均で自分用のグラスも買った。細かくてカラフルなドット柄だった。後日他の友達が来た時にそれのセンスがいいって言われたって聞いた。ピンクの象の置物があって、そいつの手が届かないような高いところに置いて意地悪したりした。流行りもんの小説とか漫画とか置いてあって、大学生らしい大学生だなってバカにしてた。カラオケも一緒に行った。ラッドウィンプス歌ってたけど、普段の話し方と一緒で声がフラフラしてた。バイト先の友達とディズニーランド行った写真がコルクボードに貼ってあって、それもいかにも大学生みたいでバカにした。
謙虚なのかなんなのかいつも態度が小さかった。そんな気がする。話し方とか仕草が小さかったからかな。自信が無さそうに見えた。本当にそうだったかもしれないし、全く違った面があったのかもしれないけど分からない。遊んでくれてたって事は嫌では無かったのかな。
あいつの就活が始まったあたりからはほとんど遊んでない気がする。避けられてた様な気もするけど、それはこっちだったのかもしれない。卒業してから話したくなって連絡した事が何回かある。その時に電話にもメールにも反応が無かったから避けられてると思ったんだった。人伝てに元気では居ることを聞いて、なんで連絡返さねーんだよ。と思った事もあった。少しいじけてたんだと思う。僕が。去年、三年ぶり位に会えた。そう言えば家に遊びに行ってた面子だ。そう言う会だったんだっけ?池袋西武の屋上のビアガーデンで、僕が珍しく時間通り来て、久しぶりって言って、音信不通になりがちな二人が時間通りって変で笑った。そう言えば、お前避けてただろ、とか、就活うまく行かないと仕方ないよなとか話した気がする。避けてた話は許したんだった。本人に言ってすっきりしたんだもん。その会はやっぱりみんな自由で、学生の時みたいに遅刻したり一次会すっ飛ばしたりしながら、一瞬だけどみんな揃ったんだよ。確か。
大学院出た後、やっぱり就職うまく行かなくて、専門学校に通って、ちょうど働き始めたばっかりで横浜でSEやってるって話とか、アルバイトの彼女と猫と暮らしてるって話とか、セックスがマンネリで面倒くさいって話とか、本当に、本当にどうでもいい事しか話さなかったしこうやってまた揃ったんだったらまた当たり前に会えると思ったんだもんな。
卒業して会わない奴らが沢山いる中で一回でも会えればそれは凄い事で、また年一でも会えればそれ位がちょうどいいって思ったよ。何回か繰り返してればきっと誰かが結婚して、家族が増えて、また家に遊びに行く事もあったかもしれ無かったよな。おっきな事とか無かったけど、ビアガーデン楽しかったな。今年も行きたいよ。俺は。
仲良くも無かったって思ってたけど、思い出せば出すほど仲よかったじゃん。知らない部分多いだろうからってそんな事ないって思ってたけど、俺は仲良かったと思う。忘れててごめんな。

work shop

ogre you assholeの素晴らしさはライブの変態性にあると思っていて、とはいえhomely、100年後、ペーパークラフトの所謂三部作以前のライブしか見た事は無いのだけどその実感は初めてのライブアルバムを聴いても変わらなかった。
work shopを体験してから感じた事としては、三部作を聴きながら感じていたのは聴こえてくるパッケージされた音楽だけじゃなく、ライブで経験した空気感も込みだった事実だった。
楽しかったとかそんなじゃなく、セッション的に生まれる音楽を目の当たりにして圧倒されたっていうイメージがiPhoneから聴こえる音楽をより豊かなものとして脳みそが補完していたみたいだ。
彼らの音楽には空気が必要で、それを叶えるのはライブなんだとこのアルバムを聴いて僕は思ったし、人の影を感じてこそやっと孤独になれるんだ、とも思った。あぁ、本当に何も言えない。自分の語彙の無さにいらいらするし、無理をして何か感想を言わなきゃいけない事なんて無い事も分かっているはずなのに、誰かに言いたいこの感じはなんなんだろう。言葉を重ねれば重ねるほど中身がなくなるし、それを誘発するような本当に意味のある、意味の無いアルバムだ。

あいまいなターゲット

会社員になることは自己啓発ソングを受け入れる事。
学生の頃の悩みは、社会を受け入れない歌で解消して、社会人になると自分の境遇にあう歌は無くなり、根性論を中心に据えた自己啓発ソングの行間に私情を挟む事で気持ちを落ち着ける方向に向かうんじゃなかろうか。
僕はそんな風に考えている。

音楽の素養が無いとそうならざるを得無い。どんなに革新的な試みも私には理解でき無い。残るのは言葉の響きとどうとでも取れる歌詞。それは決して悪い意味では無く、純粋に自分にとって心地の良い言葉の幅を目の当たりにする瞬間。
受け入れる事のできる語彙で自分と向き合う事に徹するある種純粋な受容と言う行為なんだ。